中村紘子さんのこと
2008,02/22(Fri)
いわずと知れた日本を代表するピアニストです。また作家としても大宅賞を受賞するほどの
才能をお持ちの方です。
最近はショパン・コンクールの審査員など国際的にもピアノ界の重鎮でいらっしゃいます。
彼女は幼少時から天才的な才能の持ち主だったようです。慶応中学3年生の時全日本
音楽コンクールのピアノ部門優勝。今日に至るも権威あるこのコンクールのピアノ部門で
中学生で優勝したのは彼女一人です。ジュリアード音楽院は日本人として初めて
全額給費生でした。1965年に19歳でショパン・コンクール4位入賞。(優勝は現代最高の女流ピアニストのアルゲリッチ)以後現在に至るまで日本の最高のピアニストでいらっしゃいます。
実は私は彼女のCDはチャイコフスキーの協奏曲くらいしか持っていません。
つまり、ピアニストとしては大ファンというわけではないのです。
中村紘子さんは作家としても一流なので当然なのですが、私が彼女の大ファンなのは
本業よりも彼女の「言葉」があるからです。
あのちょっと舌足らずの甘ったるい声で実に的確な表現で物事を語る彼女のインタビューは
大好きで結構影響を受けています。
故高円宮憲仁親王との対談では若き日の苦しみを語っておられたのですが
「ジュリアードに行って初めて音楽を楽しく学ぶことを知った。それまではピアノ道だった」
「コンクールでも予選では不幸せな演奏だった。本選のコンチェルトで指揮者のお陰で
初めて幸せに弾けた」
と胸の詰まるような話をされていました。
もうひとつは審査員を務めた2000年のショパンクンクール。NHKのインタビューに答え
「どんなに上手でももうこの人の演奏は聞きたくない、という人もいれば多少ミスがあっても
もう少し聞いてみたいから予選を通過させたい人もいるから不思議だ」
という私の美意識に多大な影響を与えてくれた名言もあります。
私の中で中村さんが「すごい人」になったのは浜松国際ピアノコンクールを一流のコンクール
に育て上げた手腕と、若い後輩への愛情ある目を知ってからです。
浜松国際コンクールは1991年に創設。3年に一回の開催で若手ピアニストと登竜門とされています。中村さんが審査委員長になってからは審査員も参加者もレベルアップし現在では
国際的権威を持ったコンクールになっています。
何といってもこのコンクールの権威を決定したのは2003年にこのコンクールで
第2位(1位なし)だったポーランドのラファウ・ブレハッチが2年後の2005年のショパン
コンクールで第1位、それも史上初のマズルカ賞、ポロネーズ賞、コンチェルト賞の3冠あわせての完全優勝を飾ったことでしょう。
ブレハッチは決して恵まれた環境になく浜松まで家にグランドピアノがなく、浜松の賞金で
グランドピアノを買い、ショパンコンクールに臨んだのです。
中村さんのような卓越した目と耳を持つ方なら浜松のコンクール時点でのブレハッチが
まだまだ未完成だったことはおわかりだったと思います。
でもきっと彼の可能性、ひたむきさ、端正な音楽性に将来性を感じ最高位をつけたのだと思います。
華麗な容姿で一時はCMにもよく出演され「サロンピアニスト」と揶揄されたこともある中村さんですが、かつての天才少女が自分のピアノを極め、次世代の天才を見抜き、励まし、という
生き様は本当に素晴らしく同じ女性として心から尊敬しています。
天才というと多少アナーキーでも非常識でも許される、といった感もありますが、彼女の
コンクールでの真剣な眼差しを見ているとそんな「常識」こそ非常識だと思えてなりません。
才能をお持ちの方です。
最近はショパン・コンクールの審査員など国際的にもピアノ界の重鎮でいらっしゃいます。
彼女は幼少時から天才的な才能の持ち主だったようです。慶応中学3年生の時全日本
音楽コンクールのピアノ部門優勝。今日に至るも権威あるこのコンクールのピアノ部門で
中学生で優勝したのは彼女一人です。ジュリアード音楽院は日本人として初めて
全額給費生でした。1965年に19歳でショパン・コンクール4位入賞。(優勝は現代最高の女流ピアニストのアルゲリッチ)以後現在に至るまで日本の最高のピアニストでいらっしゃいます。
実は私は彼女のCDはチャイコフスキーの協奏曲くらいしか持っていません。
つまり、ピアニストとしては大ファンというわけではないのです。
中村紘子さんは作家としても一流なので当然なのですが、私が彼女の大ファンなのは
本業よりも彼女の「言葉」があるからです。
あのちょっと舌足らずの甘ったるい声で実に的確な表現で物事を語る彼女のインタビューは
大好きで結構影響を受けています。
故高円宮憲仁親王との対談では若き日の苦しみを語っておられたのですが
「ジュリアードに行って初めて音楽を楽しく学ぶことを知った。それまではピアノ道だった」
「コンクールでも予選では不幸せな演奏だった。本選のコンチェルトで指揮者のお陰で
初めて幸せに弾けた」
と胸の詰まるような話をされていました。
もうひとつは審査員を務めた2000年のショパンクンクール。NHKのインタビューに答え
「どんなに上手でももうこの人の演奏は聞きたくない、という人もいれば多少ミスがあっても
もう少し聞いてみたいから予選を通過させたい人もいるから不思議だ」
という私の美意識に多大な影響を与えてくれた名言もあります。
私の中で中村さんが「すごい人」になったのは浜松国際ピアノコンクールを一流のコンクール
に育て上げた手腕と、若い後輩への愛情ある目を知ってからです。
浜松国際コンクールは1991年に創設。3年に一回の開催で若手ピアニストと登竜門とされています。中村さんが審査委員長になってからは審査員も参加者もレベルアップし現在では
国際的権威を持ったコンクールになっています。
何といってもこのコンクールの権威を決定したのは2003年にこのコンクールで
第2位(1位なし)だったポーランドのラファウ・ブレハッチが2年後の2005年のショパン
コンクールで第1位、それも史上初のマズルカ賞、ポロネーズ賞、コンチェルト賞の3冠あわせての完全優勝を飾ったことでしょう。
ブレハッチは決して恵まれた環境になく浜松まで家にグランドピアノがなく、浜松の賞金で
グランドピアノを買い、ショパンコンクールに臨んだのです。
中村さんのような卓越した目と耳を持つ方なら浜松のコンクール時点でのブレハッチが
まだまだ未完成だったことはおわかりだったと思います。
でもきっと彼の可能性、ひたむきさ、端正な音楽性に将来性を感じ最高位をつけたのだと思います。
華麗な容姿で一時はCMにもよく出演され「サロンピアニスト」と揶揄されたこともある中村さんですが、かつての天才少女が自分のピアノを極め、次世代の天才を見抜き、励まし、という
生き様は本当に素晴らしく同じ女性として心から尊敬しています。
天才というと多少アナーキーでも非常識でも許される、といった感もありますが、彼女の
コンクールでの真剣な眼差しを見ているとそんな「常識」こそ非常識だと思えてなりません。
スポンサーサイト